量子情報研究室 (村尾研)
東京大学理学系研究科物理学専攻
 

Research

量子情報とは、0と1のみならず0と1の任意の重ね合わせ状態を取ることができるような量子力学的な状態で表される情報である。量子力学の許す範囲で状態を自由に操作して変換することによって、古典力学に基づいた状態の変換として表される古典情報処理より優位な情報処理を実行しようとすることが量子情報処理であり、古典情報処理の限界を超えるブレークスルーの候補として近年注目を集めている。 本研究室では、計算アルゴリズムや情報処理を効率よく実行するための装置としてだけではなく、量子力学的に許されるすべての操作を自由に行うことができる装置として量子コンピュータをとらえ、量子コンピュータを用いることで現れる量子力学的効果に関する理論的研究を行っている。我々の研究は、「情報と情報処理という操作論的な観点から量子力学への基盤的理解を深める」という基礎科学的なアプローチと、「エンタングルメントなどの量子力学特有の性質を情報処理、情報通信、量子学習、量子精密操作などに役立てる」という応用科学的なアプローチの相乗効果により、量子情報理論の分野の発展に貢献する基盤的成果をあげている。国内外の多彩な背景を持つ研究者との共同研究や研究協力を実施し、研究を遂行していることも特色である。

量子機械学習・量子学習

二分決定図を用いた量子状態生成アルゴリズム

与えられた古典的データの経験分布を確率振幅とする量子重ね合わせ状態を生成する方法として、量子ランダムアクセスメモリとGrover-Rudolphの手法に基づく量子状態生成アルゴリズムが知られている。しかしこの手法は量子ランダムアクセスメモリの構成の仕方に応じて、$N$をデータサイズとしたときに、$O(N)$の量子ビット数もしくは$O(N)$の量子回路長を必要とするというトレードオフがあった。 これに対し本研究では、二分決定図 (BDD) を用いて経験分布を表現するデータ構造を提案し、そのBDDを用いて経験分布の量子重ね合わせ状態を生成する量子アルゴリズムを開発することで、経験分布が効率的に表現できる場合に量子ビット数や量子回路長が$N$に陽に依存しない量子状態生成手法を示した。

コヒーレントな制御を活用した量子ニューラルネットワーク

量子ニューラルネットワークとは、ニューラルネットワークの各パーセプトロンを量子ゲートに置き換え、重ね合わせを保ったまま入力量子状態を変換して出力するできるようにした変分量子回路である。本研究では、量子状態だけでなく各パーセプトロンに対応する量子ゲート操作自体についても、コヒーレントな制御により異なる操作の重ね合わせができるように拡張を行い、新しい量子機械学習のパラダイムとして定式化した。 また量子状態を入力データとする量子機械学習タスクにおける提案手法の性能解析を進めた。

ユニタリ比較アルゴリズムのIBM Qによる実装

量子学習は、未知の量子系の性質を効率よく学習するための枠組みである。我々は、量子コンピュータを用いることで、量子系から不必要な古典情報を取り出さずに知りたい性質の情報のみを取り出すことを目的とする完全量子学習について研究を進めてきた。昨年度までに、完全量子学習のタスクの一つとして、量子回路のブラックボックスが複数与えられた際に、与えられた量子回路が実装するユニタリ演算同士が同じか違うかを判定する「ユニタリ比較」を定式化し、このタスクを最適な成功確率で解く量子アルゴリズムを開発した。今年度は、Qiskitでの実装を通じて、量子コンピュータの実機IBM Qを使った実験での性能検証を行なった。実験の結果、小規模な回路ではノイズによる成功確率の低下は小さく、実用的であることがわかった。これにより、量子コンピュータを用いて未知の量子系から特定の情報を抽出する「完全量子学習」が実現可能であることが、ユニタリ比較について示された。

量子リッジレット変換による量子機械学習

量子機械学習における重要な課題の1つに、ニューラルネットワークを用いた学習などの一般的な機械学習タスクの中で、量子計算を適用すると大幅な高速化が達成できるような応用先を発見することがある。 本研究では、量子状態のリッジレット変換を高速に実行する量子アルゴリズムを開発し、さらにその応用先として、大規模なニューラルネットワークが与えられた際に、学習可能で疎なサブネットワークを探索する問題を効率的に解く量子アルゴリズムを構築した。これにより、ニューラルネットワークを用いた学習を高速化する量子機械学習の枠組みを明らかにした。

分散型量子情報処理アルゴリズム

量子コンピュータのネットワーク上での非局所ゲートの分散実装

量子コンピュータの量子ビット数が増えるにつれ、量子コンピュータ内の多数の量子ビットを精密に制御することは困難になる。 そのため大規模な量子計算を実行するためには、複数の量子コンピュータで分散処理を行うことが有用である。本研究では、与えられた量子回路を複数の量子コンピュータで最小のエンタングルメントコストで分散実行するタスクを解析し、またこの解析を実行するPythonパッケージを作成した。

エンタングルメントに補助されたパッキングプロセスを用いたエンタングルメント効率の高い二者間分散量子計算

本研究では、Eisertらの先行研究で提案された非局所制御ユニタリゲートを分散実装するプロトコルを一般化し、複数の非局所制御ユニタリゲートの列を一度に実装するアルゴリズムを与えた。昨年度に得られた分散実装に必要となるエンタングルメントコストを削減する問題を二部グラフの最小頂点被覆問題に帰着させるアルゴリズムを「埋め込み」などの他の戦略を包含するように拡張し、また最適解の形について外部から課せられる制約も考慮できるようにした。

高階量子演算

新しい側面からの量子情報処理へのアプローチとして、ブラックボックスとして与えられた未知の量子演算を入力として、量子演算を出力とする関数である超写像を実装する高階量子演算(higher-order quantum operations、量子プロセス、量子超写像、量子超チャネルとも呼ばれる)に注目し、その実装可能性や実装アルゴリズム、近似的実装に必要なリソース、および、高階量子演算における並列性・因果性・匿名性に関する解析への応用を進めた。

単一量子ビットユニタリ演算を決定論的かつ正確に反転するアルゴリズム

本研究では、未知の単一量子ビットユニタリ演算を決定論的かつ正確に時間反転する量子アルゴリズムを構成した。 まず、ユニタリ反転アルゴリズムを探索する問題を半正定値計画法(SDP)として記述し、問題のユニタリ群対称性に着目することでSDPの簡約化を行った。入力として与えられるユニタリ演算が量子ビットに作用する場合、簡約化されたSDPの数値計算の結果から決定論的かつ正確なユニタリ反転アルゴリズムの存在を示した。さらにこの数値計算の結果を用いて、ユニタリ反転アルゴリズムを実際に解析的に構成した。また、本アルゴリズムにおいて、補助系の出力状態に入力ユニタリ演算の情報が保存されていることを示し、この情報をユニタリ反転アルゴリズムにおける触媒として用いることができることを示した。本研究は添田彬仁博士(国立情報学研究所)との共同研究である。

ハミルトニアンダイナミクスに対するユニバーサルな変換アルゴリズム

ハミルトニアンシミュレーションの既存手法では、シミューレートしたいハミルトニアンの古典的記述が与えられていることを仮定していた。 これに対し本研究では、未知のハミルトニアンの正時間ダイナミクスが与えられた場合に、エルミート性を保存する線形変換で記述される任意のハミルトニアンのダイナミクスをシミュレートする量子アルゴリズムを提案し、その精度について解析を行った。この量子アルゴリズムは、相関を持つランダムネスを用いることが特徴である。さらに、この量子アルゴリズムを用いて、未知ハミルトニアンダイナミクスの逆時間発展や時間反転のシミュレーション、および、多パラメータを持つハミルトニアンの1パラメータを効率的に推定する方法を見出した。

触媒的量子超写像

量子チャネルを量子チャネルに変換する量子超写像(=高階量子演算)は、補助系を適切に加えることで、常にユニタリ超写像に純粋化することができる。本研究では、補助系の出力状態が、入力チャネルの一つを復元するのに十分な情報を含んでいるような量子超写像を考察し、このような複数の例が存在することを発見した。補助系の出力状態から復元された入力チャネルは本質的に触媒として働くので、純粋化により得られたユニタリ超写像を触媒的量子超写像(catalytic quantum supermaps)と呼ぶ。リソース理論の枠組みを用いて触媒的量子超写像を定式化し、量子情報処理における応用可能性について解析を進めている。

不定因果順序プロセス

ユニタリ拡張可能なN者間高階量子演算の分解

近年、事象の因果順序が一意に決まらない高階量子演算が関心の対象となっているが、こうした不定因果順序の現れる高階量子演算をどのような条件下で単純な操作に分解できるかは未解決である。本研究では、[A. Vanrietvelde, et al., arXiv:2206.10042, 2022]で提起された次の予想を証明(または反証)することを目指して解析を進めた。「N者間高階量子演算がユニタリ拡張可能ならば、ルーティングされた量子回路に分解できる」(この命題は物理的に実現可能な高階量子演算に対応するように予想されたものである)。この研究は、2021年度に得られた我々の結果 [W. Yokojima, et al., Quantum 5, 441 (2021)] の一般化と見ることができる。

量子回路を用いた量子スイッチのシミュレーション

量子スイッチは、不定因果順序の現れる代表的な高階量子演算の1つである。 量子スイッチに2つのユニタリ演算を入力した場合に得られる演算は、片方のユニタリを2回使用することで因果順序を持つ量子回路でシミュレート可能であることが知られているが、ユニタリ演算の代わりに一般の量子チャネルが入力となった場合について同様のシミュレーションが可能かは不明であった。 本研究では、入力の量子チャネルを任意の整数回使用できる条件の下であっても、2つの一般の量子チャネルを入力とする量子スイッチの演算は因果順序を持つ量子回路ではシミュレートできないことを示した。

量子エラー訂正

パウリノイズに対するランダム量子符号とテンソルネットワークデコーダーの開発

近年の研究[M. J. Gullans et al., Phys. Rev. X 11, 031066 (2021)]により、1次元・$n$量子ビット・$O(\log n)$回路長のランダムクリフォード量子回路で定義される量子エラー訂正符号を用いると、正の符号化レートを達成できることが示された。しかし先行研究の結果の適用範囲は、シンプルなイレーサーエラーモデルの下のレートに限定されていた。 これに対し本研究では、テンソルネットワークの手法を用いて、1次元・$n$量子ビット・$O(\log n)$回路長のランダムクリフォード量子回路に対し効率的に動作する最尤デコーダーを構築することで、より一般的なパウリノイズモデルについてもこうした正の符号化レートが達成されることを数値的に実証した。 本研究はAndrew S. Darmawan氏 (京都大学)、中田芳史博士 (京都大学)、 田宮志郎氏 (東京大学)との共同研究である。 (担当:山崎)

時間オーバーヘッドが短い定数空間オーバーヘッド誤り耐性量子計算

誤り耐性量子計算に必要な量子ビット数を減らす手法として量子low-density parity-check (LDPC) 符号を用いた定数空間オーバーヘッド誤り耐性量子計算プロトコルが注目されている。 しかし既存の定数空間オーバーヘッドプロトコルには、時間オーバーヘッドが多項式的にかかるという問題があった。 これに対し本研究では量子LDPC符号ではなく連接符号を用いる手法を開発することで、時間オーバーヘッドが短い定数空間オーバーヘッド誤り耐性量子計算プロトコルを構築した。 本研究は小芦雅斗博士 (東京大学) との共同研究である。 (担当:山崎)

量子熱力学と量子リソース理論

量子系の冷却コスト

物理過程における制御の重要性を表す例として、熱力学第3法則である「ネルンストの達成不可能性原理」が挙げられる。この法則は、ある系を絶対零度まで冷却するためには無限のリソースが必要であることを示す。しかし、このリソースとは何であり、どのように利用すべきなのだろうか? また、情報と熱力学を結びつけるランダウアーの原理とどのような関係があるのだろうか? 本研究ではこれらの疑問に答えるために、純粋量子状態を作り出すために必要なリソースを特定するための枠組みを構築した。無限に長い時間、あるいは無限に複雑な制御をかけることで、ランダウアーのエネルギーコストで完全な冷却が可能であることを示した。

量子エンタングルメント変換の不可逆性

量子エンタングルメントの特徴づけにおいて長い間解かれていなかった重要な問題の1つに、熱力学でのマクロスコピックな状態変換が可逆であるのと同様に、エンタングルメントの漸近的変換は可逆にできるかという問題があった。 本研究ではエンタングルメント変換は本質的に不可逆であることを示した。 すなわち、エンタングルメントを生成しないどのようなクラスの操作を考えても、その操作で可逆に実行できない量子状態変換が存在することを示した。 本結果は、熱力学第二法則と同様の法則がエンタングルメントのリソース理論では一般に成立し得ないことを示すものである。 こうした結果を得るための手法として「テンパードネガティヴィティ」という効率的に計算可能な量を導入することで、量子状態のエンタングルメントコストに関する新たなバウンドを構成し、量子相対エントロピーなどに基づく既存のバウンドを改善した。 さらに本結果を量子チャンネルにも拡張し、量子通信の理論においても同様の不可逆性が現れることを示した。

量子状態の確率的変換に関するタイトな制約

本研究では、量子リソース理論によって課される物理的な操作の制約のもとで、量子状態間の確率的な変換がいつ可能であるかを解析するための一般的な理論的手法を開発した。 定量的なバウンドや制約の導出に加え、特に本研究では「プロジェクティブロバストネス」という新しいリソース尺度を解析することで既存の結果を改善し、量子状態変換の背後にある新たな制約を明らかにした。 こうした結果により、エンタングルメント蒸留やマジック状態蒸留などの重要な量子プロトコルの性能に関してより強力なバウンドが導出された。